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 吉見百穴は古墳時代の末期(6世紀末~7世紀末)に造られた横穴墓で、大正12年に国の史跡に指定された。横穴墓は丘陵や台地の斜面を掘削して墓としたものであるが、死者が埋葬された主体部の構造は古墳時代後期の横穴式石室とほとんど同じである。百穴が分布する一帯は凝灰質砂岩と呼ばれる比較的掘削に適した岩盤が広がっており、当時の人々は掘削するのに適した場所を探して横穴墓を造ったと考えられる。吉見百穴は明治20年に発掘調査が実施されているが、わずかな写真と出土品を残すのみで詳細な情報はほとんど残っていない。現在確認できる横穴の数は219基である。

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横穴式の石室

吉見百穴2 横穴墓の形態は数種類に分類することが可能であるが、ほとんどの横穴の壁際には10~20cm程の段が作られている。これが死者を安置した部分であり、一つの横穴に二つの段があるということは複数の人が葬られたことを示している。また、横穴墓の入り口には「緑泥片岩」と呼ばれる山間部に分布する緑色の石の蓋が立てかけられていた。この蓋の存在は、横穴に死体を葬った後であっても、再び石室内に入ることが可能であることを意味する。こうした構造から、横穴墓は一つの横穴に複数の死者を葬る「追葬」を前提にしているのである。これは古墳時代後期に造営された古墳の石室構造と同じものである。

石室の変遷と被葬者

 3~4世紀に発生した初期の古墳は「縦穴式」の石室構造であり、一度古墳が造営されると再び石室に入るためには古墳を壊さなければならず追葬は困難であった。このころの古墳の被葬者は大豪族や大王と言った権力の頂点にいる人々であったが、古墳時代の後期には大豪族や大王の側近などの豪族も古墳を造営し日本各地で古墳群を形成するようになった。この頃、大陸から横穴式の石室構造が伝来し、一つの古墳に複数の死者を葬る「追葬」を行うようになったのである。その後、社会的な変化や時代の変遷によって大規模な古墳は造営されなくなり、古墳時代の終焉には吉見百穴に見られるような横穴墓群になっていった。こうしたことから吉見百穴に葬られた人々は「豪族」「渡来人」と言った当時の社会で特殊な集団であったことが考えられるのである。

吉見百穴の時代

 仏教が伝来したのは西暦552年(一説には538年)、聖徳太子が推古天皇の摂政となって活躍したのは西暦593年~622年であり、百穴が造られ始めたころとほぼ一致する。仏教が本格的に広まるのは後年のことではあるが、古墳を造営して死者を葬っていた当時の日本人の死生観に大きな影響を与えたと想像することが出来る。
 また、6~7世紀は地方豪族の連合体の首長として君臨していた大和朝廷がその支配力をいっそう強め、日本全体が中央集権国家へと移り変わっていった時期である。西暦645年の「大化の改新」以降、中央集権国家としての国家機構は加速していくことになる。646年には葬送の儀式に関係した「薄葬令」が出された。「薄葬」とは一言でいえば「簡単に葬ること」で、地方豪族の権力の象徴と言える古墳の造営を禁止した法律である。西暦652年には班田収受法が施行され、豪族の支配していた「土地」と「人」のすべてが大和朝廷の支配下に置かれるようになり、公地公民制が本格化されていった。
 この「仏教伝来」「中央集権国家」という日本の社会の大きな変換期に百穴は造られたのである。

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