軍需工場跡・ヒカリゴケ

地下軍需工場跡

地下軍需工場

 昭和19年~20年に、吉見百穴とその周辺の丘陵地帯に大規模な地下軍需工場が造られた。今でも通行可能な直径3メートル程の開口部を持つ洞窟が地下軍需工場の跡である。縦と横の洞窟がそれぞれ交差し碁盤の目のようになっているのが特徴である。
 太平洋戦争の末期、米軍の大規模な空襲によって日本の航空機製造工場の生産能力は壊滅的な打撃を受けた。当時、東京都武蔵野市の中島飛行機工場は、空襲から逃れるために地下に移転する計画があったが間に合わず、昭和19年11月と12月の2度の空襲によって生産能力が10分の1に落ち込んだと言われている。そのため、現在のさいたま市にあった中島飛行機工場の移転の必要性が急速に高まり、生活物資の調達に便利で、掘削に適した場所である吉見百穴地域に軍需工場が造られることになった。吉見百穴にある地下軍需工場跡は、こうした空襲を避けながら航空機の部品を製造する目的で造られたのである。本来、市ノ川は湾曲しながら百穴の裾の付近を流れていたが、地下軍需工場の前面に平地を確保するため川を西に移動させ、湾曲した川を直線に改修し現在のようになったと言われていることから、この工事が大規模なものであったことが理解できる。

 軍需工場の対象となったのは松山城から岩粉坂までの直線距離にして約1300メートル部分で、この工事を「吉松工事」と呼んでいた。おそらく吉見と松山にいたる工事という意味と思われるがその理由は定かではない。軍需工場は大きく分けて「松山城跡下」「百穴下」「百穴の北側」「岩粉山近辺」の4工区あり、それぞれの工区は独立していた。ダイナマイトを使用しての工事であったが、地下施設工事に適した凝灰質砂岩の分布は百穴と岩粉山付近でしか認められず、松山城下には第三紀層の固い岩盤があり落盤が起こりやすく、百穴と岩粉坂の中間は山が低いので掘削に適さず工事は難航したと言われている。また、この工事は設計後の図面に基づいて実施しているわけではないので、工事を進めながら設計を進めるという作業であった。そのため掘削しては測量し、高低や方向を修正していたと言われている。七月頃には機械が搬入されエンジンの部品が製造され始めた様であるが本格的な生産活動に移る前に終戦となった。この工事に携わったのは全国から集められた3,000~3,500人の朝鮮人労働者で昼夜を通した突貫工事であった。掘削工事に従事した最後の人の帰国に際し、日本と朝鮮との平和を希望して植えられたムクゲの木は現在でもこの地で成長を続けている。

ヒカリゴケ

ヒカリゴケ ヒカリゴケはコケ類の一種であり、緑色の光を放出しているように見えるところから、この名がついている。ヒカリゴケの生育には、一定の気温と湿度を保つ環境に恵まれることが必要で、この条件に合った吉見百穴の横穴墓内にはヒカリゴケが自生している。ヒカリゴケは一般的に中部以北の山地に見られるが、関東平野に生育していることは植物学上極めて貴重である。

Map

埼玉県比企郡吉見町大字北吉見321

PAGE TOP